レジックスポーツの山下です。
みなさま、お待たせいたしました!!!
【コーチインタビュー企画☆第2弾!】と題しまして、
1996年、アトランタオリンピック日本代表の岡崎美穂先生に、
現役時代から現在に至るまで、いろいろなお話を伺いました。
目次
- ○ 【プロフィール】
- ○ 【インタビュー(現役編)】
- ○ 【インタビュー(指導編)】
- ○ 【まとめ】
【プロフィール】
名前 :岡崎美穂(旧姓 橋口)
出生地 :愛知県
出身大学 :日本体育大学
体操開始年齢:小3
主な経歴 :1994 全国高校総体 床優勝
1995 全日本選手権 個人総合優勝
NHK杯 個人総合3位
世界選手権出場
1996 全日本選手権 個人総合3位
全日本学生選手権 個人総合優勝
NHK杯 個人総合4位
アトランタ五輪出場
1997 全日本学生選手権、個人総合3位
全日本選手権団体優勝
ユニバーシアード大会出場
1998 全日本学生選手権、個人総合2位
NHK杯 個人総合6位
アジア大会出場
1999 ユニバーシアード大会出場
【インタビュー(現役編)】
Q.体操を始めたきっかけは何ですか?
➥まず、父親が水泳、母親が体操の経験者・指導者だったため、首が座ったころから小学校3年生まで8年間水泳を習っていました。体操は小学校1年生ごろから母親が指導していた体育館に一緒に行き、体操教室を見ながら横で遊んでいました。
3年生の冬ごろに、水泳よりも体操に興味を持ち、自分も体操やってみたいと親に言ったところ、母親の友達から名古屋の体操教室を紹介していただき、体操教室に通い始めました。
Q.初めて出場した大会を覚えていますか?
➥私は小学校4年生の9月に選手コースへ編入したため、初めての大会は5年生の夏に行った西日本ジュニアの大会だったと思います。
遠征も試合も何もかもが初めてで、旅行気分で言った記憶があります。
大会自体は、本当に出場するだけというレベルだったので、ただ楽しかった印象しかありませんでした(笑)
Q.現役時代、練習の中で忘れられない瞬間やエピソードはありますか?
➥当時の練習は時代の背景もあり、とても過酷な練習でした。ある日、練習内容が悪くて通常練習が終わってから居残りで深夜2時まで練習した時がありました。
小学校6年生の時に、チームの人数が足りないからと突然チームのメンバーに入り、高校生のお姉さんと一緒にいきなりハードな練習をしたことを覚えています。当時、規定演技と自由演技があり、8種目の演技の練習をしなければいけませんでしたが、どうしても段違い平行棒だけ出来なくて、自由演技をほぼ規定演技にして試合に出場していました。
Q.印象的だった試合は何ですか?
➥・1992年のバルセロナオリンピック2次予選大会。
前年の1991年の全日本が初出場の全日本選手権大会で、この大会は規定演技の試合が終わってからボイコットがあり、何もわからないまま終わった全日本デビューでした。翌年、運よくバルセロナオリンピック2次予選大会に通過でき、全日本大会の経験が浅いまま、出場しました。そこで、初めて目の前で見るオリンピック選手やテレビで見ていた選手がたくさんいて、緊張のあまり足が地に付いていないまま試合をして、見事ほぼ全種目失敗して終わりました。
どん底を経験したせいか、この試合からあまり失敗をすることが少なくなり、大きな大会でも冷静に演技が出来るようになりました。
・1995年の全日本選手権大会
この大会は、高校3年生で当時のクラブ「東海テレビレッツ体操クラブ名古屋」として出場する最後の大会でした。そのため、親や今までお世話になった方々に感謝とお礼をするつもりで、一番いい演技を魅せれるように頑張った試合でした。そしたら、結果逆転で個人総合優勝することが出来、あまりにもビックリして泣いてしまった大会でした。
また、それまで関東以外で個人総合優勝した事がなく、初めて地方からの優勝者が出たことで、西日本エリアのクラブの先生方もとても喜んでいただき、沢山の方に祝福していただけた大会でもありました。
・1996年のアトランタオリンピック最終選考会
この大会は、最初で最後のチャンスだったオリンピック予選会で、人生で一番緊張した大会でした。選手・コーチはもちろんですが、審判や関係者スタッフ、会場の雰囲気も何時になく緊迫した状況で、あまり緊張をしない私でしたが、この大会だけは本当に緊張しました。
普段、普通に練習していた技が突然分からなくなったり、演技の練習の時に全く失敗しない所や技ではない動きの所でふらついたり、試合10日間前から胃が痛くなり、寝れなくなったり、振り返ると、緊張とはこのような状態になるのか!と感じた大会です。
Q.現役時代、最も苦労したことは何ですか?
➥大学生になって、急激な体の変化に対応出来なくなったときです。
私は、体操界の中では身体は大きい方ですが、中学生頃までは身体は細く、小さく、体重は自分なりには気にしていましたが、周りの選手よりかは楽な方だったと思います。ところがオリンピックが終わって20歳を過ぎたころから、急激に身体の変化があり、急激な体重増加やコンスタントに練習が出来ない時期があったり、喘息を患い、練習が思うように出来なかったりした時がありました。
その時は、「私は何をやっているのだろう」などと目標を失ったり、体操をやっている目的が分からなくなったりして、心身ともに苦労しました。周りの同年代の仲間、同級生に助けられて、何とか大学卒業まで現役生活を送ることが出来ました。
特に、引退するまでの最後の2年間が競技人生にとってとても辛い時期でした。
Q.世界選手権やアジア大会などの国際大会と、オリンピックの違いは何かありましたか?
➥やはり、オリンピックは全世界が注目をする大会であり、世界最大の大会の為、注目度がまず違います。もちろん、選手村や大会会場。いつもはそれぞれのスポーツでの競技ですが、オリンピックは各国でチーム一丸となって闘う世界最大のスポーツイベントだと思います。
そのため、すべての事において大会の規模が違うと感じました。
【インタビュー(指導編)】
Q.指導者を志したきっかけは何ですか?
➥大学を卒業すると同時に現役生活を引退しましたが当初、基本的に人が喜ぶ事や幸せにする仕事がしたいと思っていたため、体操以外で人の役に立つ仕事に就く希望を持っていました。
最初は、体操指導者は向いていないと思っていたので、体操指導者という選択肢は頭の中にはありませんでしたが、ある先生から「今まで体操で色々な経験をしてきているのだから、体操を通じて人の役に立つ仕事をしたらどう?」と体操の指導を進められました。
私の性格上、やると決めたらとことん追求しないと気が済まないので、体操の指導をするのであれば、女性でも補助が出来る指導者になろうと決意して、補助の勉強を始めました。
ここから私の体操指導者が始まりました。
またある時、別の先生が鉄棒の逆上がりの指導をしていて、全くできない状態から、先生がかけた言葉一つで、子供たちの目が変わり、逆上がりが初めて出来、先生たちと一緒に喜んだ姿を見て、この指導に惹かれて、体操を通じて子供たちの成長をお手伝いできる指導者になろうと思いました。
Q.指導をする中で、心がけていることや大切にしていることは何ですか?
➥私たちは体操の先生でもありますが、一人の大人でもあります。ですので、子供たちに体操の指導はもちろん、道徳心・人間性など大人になっていく上で大切な事も教えていかなければいけないと思っています。なので、お子さんを親御さんから預かっている以上、第2の親のつもりで指導しています。
また子供は、先生や大人の一言で色々と変化しやすい時期ですので、指導するうえで、常に子供たちの立場からも考えて適切なアドバイスを伝えるように心がけています。
Q.指導者として、喜びを感じる瞬間はどんな時ですか?
➥私は毎日、最低でも1回以上は喜びを感じています。指導している子供たちは一人ではありませんので、人それぞれの昨日より今日の成長が見られるときに喜びを感じています。例えば挨拶の声が小さかったのに大きくなった。今までは失敗して泣いて逃げていたのに、ある日突然失敗しても泣かずに失敗した原因を考えてまた練習している姿を見る事ができた。など、
体操の指導をしていますので、なかなか出来ない技が出来るようになった喜びと同じくらい、大人になっていく過程での成長が見られるのがとてもうれしいです。
Q.美穂先生にとって体操とは?
➥私にとって体操とは、私という人間を成長させてくれたものです。
体操を通じて、色々学ぶことが出来ました。指導者になった今も、学ぶことがたくさんあります。学ぶたびに成長している実感も湧いてきます。この学びをこれからも続けて、子供たちに伝えていけたらと思います。
【まとめ】
みなさま、いかがだったでしょうか?
私も普段なかなか聞けないお話を聞くことができ、またかなり細かくお答えいただき、とても勉強になりました。
特に現役時代のお話は、今では想像できないようなエピソードもあり、時代の変化(?)を感じ、印象的でした。
美穂先生、貴重なお話をありがとうございました。